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yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

今拓く華と路と空と風7 

今拓く華と路と空と風7

現在の生活の中から過去を思い起こし書き、現代の不安をも綴りたい…。



  劇作家になるための訓練方法 こんなことをしていた。
                    2016/7/7

若い頃から今も、テレビドラマはほとんどみませんが、映画は音を消してみています。台詞は画面、表情を見て想像して頭の中に作るのです。そして人物の過去と現在を見て将来を想像するのです。人間観察をするのです。そんな訓練をしてきました。それを自分の創作に生かすのです。            
京子さんが行ったであろう苦労もわかります。人並みの努力ではだめだったことも、人より少し努力を、人よりチョット勇気を出して、人よりわずかに人との出会いが多くあって、その差は大変大きいことだったこともわかります。  
今頃漸くわかりかけてきました。人の悩みが、この歳になって今までの不養生があだとなり体が拒否反応をするときに、いろいろな悩みを持って苦しんでいるであろう沢山の人の思いが。一人の人間が一人の苦しみを解決してあげられたらどんなに世の中が明るくなるかを感じています。人から見れば些細な事でも本人にしてみれば深刻な問題なのです。若いころ感じなかったものがようやくわかりかけています。これから物を書くときに理解することから始めようと思っています。60歳からの10年間、書かなかった結果の結論なのです。
あどけない。たくさんの夢を抱えて飛び回って幸せを運ぶ…。きっときっと元気になる。もっともっと幸せになる。考えたって駄目だよ、悩んだっていいことないよ、自分の力で立ち上がらなくては…。深呼吸をするんだ、想い悩んでいるときには…。誰かのせいにしてはだめだよ、きっと自分の心の中に原因があるんだから…。そんな時には眼をつむるんだよ、そこには君の素晴らしい明日が見えるから…。

今、そんな思いを抱いて良寛さんと貞心尼の想いを書いたのが、一人芝居「はちすの露」なのです。10年間は無駄ではなかったと思えるようなりました。初心を貫くことも「林住期」なのかもしれないと思えてきました。京子さんから温かい励ましをいただいて書く気が起こりました。うなぎを怖がらず食べて元気を出して…。ありがとうございました。お元気で、つつがなき日々を…。

文学の心を養うもの  2016/7/10

 全国から昔の同士たちが招待を届けてくれる。
 それにいちいちこたえられないのが実情である。毎度毎度あてにならない私への送付は手数がかかることであろうと拝察して済まないことだと謝りたい。私はそれを受け取ったと返事は欠かさない、そして現在の心境を書き添えている。それが人間としての当たり前の立ち位置だと思うからそうしている。が、世間ではそれは珍しいことらしい。
 まず市とか県に、そこから金が出ている機関にしても絶対受け取ったという返事はまずない。それは、テレビ、新聞にも言える。
 市とか県の文化に携わる人達に民度の低さを嘆いてもせんない事ではあるがそれくらいの常識は持っていてもらいたい、増して、文化を振興する事を仕事にしている人ならばなおさらであろう。この程度の人達が文化を声高に叫んでも絶対に文化市も文化県にもならない事は火を見るよりも明らかであろう。まず、それを起こそうとしている人達の生活がその心情を物語っていることになる。人間の心を知らないと言う事だ。
 私は、文化も、環境も人間の民度が上がり人間の環境が良くならなくては高め推進する事はないという考えを持っている。これは自然環境を語る前に人間環境を良くしないと良くならないと言う事と同意語である。
 私は岡山の事は知らないが、私を導いてくれた人達、手を差し伸べてくれた人達にはその人間としての礼節は心において接してくれたものであった。名もない一人の劇作家にしても人として応対してくれた。が、岡山県下の文化人と称する人達のあの個人的な傲慢さはどこからくるのであろうか。私が驚いたのは読みもせず、見もせずに批評する言葉を発すると言う偉人が何と多いことかと言う事だ。それを似非文化人と呼ばせて頂く。私は市の県の文化人の集まりには一切出ない、もう二十年以上前に出席はできないからと断りの手紙を書いた。私は時に文化庁のパーティーには招待されていくことがある。大変に謙虚な人達の集いである。そこには謙譲の心があり美があることだ。
だが、岡山県はどうであろうか、自慢話に尽きる。私は物を作りそれに励んでいる人を文化人と思っているので集まる人達とのギャップを感じていたからである。
 まあ、今の市と県の文化行政、その変わりをしている団体の人達のあり方を見ていれば、おおよその見当はつく。返事が書けない、その態度でこの県の文化は劣化していると判断がつく。それに審査をする人たちの何とお粗末なことか、浮気をし不倫をするように倫理観のない人達がそれにあたっているとは恐れ入る。同じ穴のむじななのか、低度はそこに尽きるのかと思う。市や県の文化課、それを丸なげされた文化連盟、文化振興財団、それらが創られて久しいがその成果はあったのか、それは問いたいものだ。私にはそれが見えない。
 まず、市民、県民が民度を上げなくてはならない事は当たり前だが、その政策は行われているのか。
今の現状でものが書ける人達を尊敬する。そこに何も新しいものがないという事でも書けることにである。そもそもそれで創作が出来ると言う事は必然を書くと言う文学の根底を覆すものであるからだ。書く人もそうなら審査する人もその必然を見ることもできない人ばかりであるという事になる。そこには作文はできても創作である文学は程遠いものしか集まらないと言う事になる。ならばそこから何も生まれないと言う事になる。こ連鎖が日本に文学の萌芽がないという事に尽きる。前にも書いたが、その芽はパソコンのなかに見てことが出来ると書いたが、歴史、宗教、文学、哲学についても深い造詣から生まれる表現の言葉が綴られているものが多い。時代はそこから生まれ既成の概念を崩壊して育ってくれる事を節に望している。
 まず、生活から立て直さないと生まれないものがある。それがなおざりにされていれば哲学も思想もありきたりのものになって新しさが生まれない。
 ものを書くことを夢見る人達に、まず世界の歴史、それに振り回された日本の歴史を熟知し、そのなかに自分は人間にこうあってほしい、社会派このようになってほしいというものを書き込んで、人間の新しい側面と社会の未来を綴ってほしいと希有しているのだが…。
 さて、これからどんな夢が見られるものなのか、座して待つことにしよう。
 


   岡山県の文化の振興と民度 2016/7/12

 様々な文化振興の団体が組織としてあるが、果たしてその成果があったのかと問われればないと言うしかない。一部の人にはあるのかも知れないが田舎に届かないと言う事はないという事として理解している。
 その団体は何をしているのか、まずその原因、文化と民度の低さを何が物語っているのかを知っているのだろうか。色々と企画や催しをしてはいるがそれが成果をともなっていないと言う事なのだ。
 何も考えず毎年同じことを繰り返しているようではそれは無駄な努力と言うものだ。
 何が、と言う疑問がわかっていない。簡単に書けばそれは幼児教育の問題なのだと気づかなくてはならないが、その考えは及びもつかないことなのだろう。
 考えても見てほしい、嘗て岡山県は全国的にも教育県の名をほしいままにしていた。が、その教育が瓦解してから時を同じくして文化は停滞し立ち上がれないところまで来ている。その原因が分からないとは何と堕落した人たちがその団体にいて、県も県民の税金を無駄に使っているかと言う事だ。
 まず民度を上げる、それには幼児、小中生の教育
に新しい風を、言いかえれば、感動する心を養う教育が不可欠であることに気づかなくてはならない。子供を使い親や年寄りを巻き込んで大きな催しをすることが手っ取り早い民度の回復なのだ。まず県民の人間環境を整備しなくては民度は上がらない。文化を年寄りから幼児に移し替えなくては育たないのだ。
 私は、嘗て、倉敷市は母と子を大切にする町を提唱してきた。そこから生まれるものは大きいと思ったからである。が、青年たちはその考えに邁進し動いたが世間は知らぬ顔を決め込み消滅したことがある。そこを実現したのがライオンズクラブの金持ちの団体でアイデアを横取りして母と子の像を駅前の広場に建てたが、それでは形ばかりの物になってしまう事でもあった。青年が立てなくてはその効果はない事は歴然としていた。その例もあり市民の中から身銭を切って創らないと意味がないのだ。
 文化と言うのは市民の中から必然として起こらなくては育つものではない。行政がいくら声高に手を差し伸べても届かないし共感をする人も少ないのだ。
 まず幼児の力を借りて親や年寄りを巻き込んでそこで人間に大切な感動の輪を創らなくては、それを広め感じ取らせなくては育たない。
 仕事をやってますと言う方便では文化は絶対に今より充実する事はない事を断言できる。
 それはそれらの団体が出来ても何も変わっていないことがその査証である。団体職員は言ってみれば無能で税金泥棒なのだ。
 県民市民に感動する心、感謝する思いの場を提供することが、県民の環境を創ると言う簡単な姿なのである。芸術祭、土曜劇場、文学選奨などの基準があいまいなこともそれを主催する団体のあり方を曖昧にしている。その審査員が文化に対しての正確な理解がなくて文学も演劇も分かっていないという現実を知らなくてはならない。平たく言えは人間を熟知していないと言う事だ。なぜ、江戸時代にあれだけ文化が栄え広がったのかの検証がなされていないという不幸がある。
 それは欧米の文化と連動していることも見なくてはならない。なぜ、江戸時代の芸術がそこでもてはやされたのか、東洋の神秘と言うだでかたずけられない事は言うまでもない。当時の世界の識字率がそこにある事を知らなくては判断が出来ないことだろう。維新当時イギリスはその識字率は十%に達していたのか、日本は六十%に達していたという事の認識がなくては語れまい。武士たちの生活が清廉で簡素、心を養う事を常として生きていたことも知らなくては、今の日本を理解することがかなわないはずである。
 日本人は当時、平均年齢は三十五歳、平均身長は百四十五センチ、猿と侮っていた白人はその高度な日本人の教育環境に驚愕したのだ。では今なぜ日本人は文化をないがしろにしているのか、精神的な生活を忘れ経済的な生活に重点を置いているからである。そこには民度はいらない、と言う事は文化も必要ないという事なのだ。
 文化に携わっている人達に言いたい、世界の歴史の中で日本の歴史を比べてみてほしい、まやかしのそれらの歴史を虚偽であることに気づき真実の歴史を知り、そのなかで生きている人間を考察し、そこから生まれる文化を問い直してほしい。
 それが文化に携わる団体の務めであり責務と考えるのだがどうだろう。
 今、世界的にも文学と哲学はなくなりつつある。日本も同じ道をたどっている。
 追い求めるそれらは広い知識と知恵がなくなったという事なのだ。
 文明は知識で作られるが文化は知恵がなくては生まれない。
 その知恵を持つ事は多くの書物に親しみ、沢山の人達と接し、多くの事を社会から吸収し、その垢を精査しそれを振り落としたところに知恵は生まれると言う事を感じ取ってほしい…。


   文化と文学的な生活について 2106/7/13

 書き手の生活が作品を創る基盤になると言う事は言うまでもない。その生活とは何をなすことか、それが曖昧になっているから作品が書けなくなる。流行作家が筆を置くのは生活に対して執着がなくなったという事に尽きる。生活、文学的な生活とは何なのか、新しい人間の発見と社会の人間にとってのあり方を-見つける目である。それがなくては必然がないので書き進めることはできない。
 私は多くの作家志望、芸術家志望の人たちを見つめてきた。生活で養うべき愛というものを勘違いしている人達が多くいた。その人達はある所で立ち止まった。その人たちに共通する事は倫理観が希薄であったという事に尽きる。つまり他人の意見を聞くと言う倫理の基本を持っていないと言う事だ。その狭い思考からは生まれるべくして生まれるものはなくなった。文学にしても絵画にしても音楽にしても、人間との付き合いの中で養わなくてはならないものが多くある、が、それを自己中心的にとらえては創作など出来る筈がない事を知らないという事である。そのような人は自分がしなくてはならない、心を広くする、つまり感謝と感動をし心を広く柔らかくすると言う事をしなかった。そして、別の分野で中途半端な見識を持って岡山県の何何会長と言う地位を欲しがった。そこには文化を愚弄するしかないことにも気づかなかった。そこ人たちが今の岡山の文化を、偽物の文化を蔓延させた。
 その人達にことはここに書かない。
 はっきりと言って私は岡山県の文化人を殆ど知らない。が、私のように田舎で生きていてもいくらかの情報源はありそこから流れ込んでくるので知っている。
 私は東京、静岡、埼玉、神奈川、大阪、その他に文化的なつながりを持っているので、そこの情報を精査するとおのずと岡山のあり方も予想できる。これは全国的に立ち止まっている現象でもある。
 それらの地域から色々な招待状が届くことによりその現実に触れている。旧態依然のなかにも新しい種を植えその萌芽を育てようとしている気配を感じることが出来る。やはり生活が違うと感じている。行政の指導ではなく自らが前に進む姿勢が見られる。
 行政、それに属する団体は何もしなくていい、邪魔をすることなく見ていてほしいという思いがある。
 人間が行政の手を欲しがり始める事は堕落以外のなにものでもないのだ。
 問いたい、それらの団体は何をしようとしているのか、アドバルンをあげて祭りでもする気なのか、文化や芸術は国民の要求によって生まれ育てていくものなのだ。今その国民の声が小さく聞こえなくなっている事は否めない、が、文化に関係している人達は耳を澄ましてそれを聞きとらなくてはならない。行政が国民の声を聞いて囁くのではなく、その人たちの声を、思いを文化に関わっている人達が聞かなくては何も生まれないのだ。その辺りに誤解と錯覚があるように思う。聞こえない、それは生活にある事は言うまでもないその声を聞く耳を持たない生活をしているからなのだ。
 文化に関わっている人達はその人たちの声を耳にする、つまりこれからの人間のあり方、どのような社会が人間に取って本当に必要なのかと言う事を、自らが考えなくてはならない。これは政治の世界の問題でもある、当たり前である、政治と文化は相反し常に牽制球を投げ続けなくてはならない存在なのだから。

 それを文化的な生活と言う事なのだ。快適なと取らないでほしい、言いかえれば文学的と言う事なのだ。
 果たしてその事を真剣に考え文学に取り組んでいるのだろうか、文化を振興したいと言う前に気づいているのだろうか。
 岡山県の民度を上げる事はその様に考える文化に携わる人たちがいかに多くいるかと言う事に尽きる。知らない、いないと言う事を感じている。
 国民と一緒に行動するそのことの重要性、ロマンを語ってほしい。
嘗て、国とともにあった作家がたくさんいた。その人達は世界の歴史と日本の歴史の違いを知り、またそれらに振り回された事を熟知していた。宗教は死んだとその復活を希有した。
今は何もなくなっている。その不毛の大地と空間に何が必要なのかを提議する人たちをと知らない。この分野に税金を投入しても関わりのある人の酒だいに変わるだけである。
哲学を持たない人達に、人間の知恵を抱いていない人達に期待してもそれはないものねだりであることを知らなくてはならない。
と、言う事はそれらの行いは不毛の大地に水を蒔く行為、ただの疑似的行為なのだ。
子供たちには遊具のない木を植えた公園を与え、青年たちには自由に使える空間を与え、年寄りには定年制を廃止し社会に参画している喜びを与える、そこから新しい文化の芽は必ず芽を吹くだろう…。一人の文学的な生活から知恵を得た人たちが一人一人と息を吹き返して参集して何かが生まれるだろう。それが文化であり、そのなかの一つの文学の萌芽である。


 文学の不毛をどのように実りあるものにするか…。
  2016/7/14

 そう考えていると何もいい考えがうまれない、と言う事は結果的に絶望感が増す。今の様な情報化の世の中では簡単に知識を身に着け、昔以上にものを書き作ることが簡単になっているという事だ。
 日本の、西洋の古典など読まなくてもパソコンで検索すればそのダイジェストがすぐに手に入り知識となる。情報の衣をまとっている人間は何も考えなくなっているということだ。創作の事も書き手の創造がなくてもできると言う事になる。それが現代の形であり姿なのだ。
 だが、昔の作家が本当に自分の想像で書き著わしたものがあるのかと言う事だ。総て先人が書き語った事を元にして書き著わしているという事は創作ではないのだ。これからますます作家と言う物書きは想像力が生み出す作品は書けないだろう。
 ここで何度も書いている、今までなかった事、世界の日本のこれからのあり方を見つけなくては創作と言うものが出来ないと言う事を知る必要がある。
 言いかえれば哲学も文学も過去の遺産となる宿命なりのだ。ペンクラブ、作家協会が拘る著作権はなくなるという事、今でも人の力を借りて想像しているのだからそもそもないのだ。
 不毛の文学、文化は今の世の中において消え得る必然と言えよう。人間の頭脳で創作する、いいえ、情報を的確に身につけることで作品は創れる、その程度の認識でロボット、AIに勝てると考えているようでは、
申し訳ないが現代が見えていないと言う事であり先見がないという事だ。
 ロボットによる文学はもう書かれている、人間の想像力をはるかに超えているロボットによってである。
それらを予見して書いたSF小説こそが真の創作であり文学になると言える。
 これからの文学はこれからの世界がどうなるのかに思いをはせて思考し書き続ける人達によって文学は存在することになる。
 ふたたび言いたい。過去の作品から得た知識からでは書く必然は生まれないと言う事を認識しなくてはならない。人間の未知なるものを見つけなくては、発見をしなくてはもう創作などできない時代が来ているという事だ。旧態依然の作品、過去の作品から受けた情報知識で書いたものは何の価値もないという事を気づかなくてはならない時期が来ている。
 それゆえに日本の、いいえ、世界に哲学も文学も生まれ育ってきていないと言う事なのだ。
 ならばこれからの人間がどのように生き暮らすのかを深慮し書くことしかない。つまり文学の進化が要求されると言う事なのだ。それには情報戦でロボットと戦い勝たなくてはならない。果たして勝てるだろうか、浅田次郎さんは考えているだろうか。
 このあたりの問題を真剣に考えているとは思われない。なぜ、あらゆる賞を設けている処にその危機感を見ることが出来ないからだ。同じ事を繰り返す危機感のなさを見れば分かる。
 昔の様な文学青年はその事に気づき独自の文学の路線への変更へ移行している。その答えはユーチューブの中に見ることが出来る。
 文学を井戸端会議にしていることである。そこに新しい文学の萌芽を見つけている。
 この人たちの書いたものは、あらゆる賞の撰者にはたぶん理解が出来ないことだろう。
 いまだに村上春樹を奉っているようでは、この人達に笑われることだろう。この人達はロボットには書けないものを書く用意をしている。
 それは何か、現実の不毛を書く、それが未来の文学につながることなのだ。
 書き手は、安倍さんにこれからの人間の変化、いいえ、進化を語ることなのだ。
 そのような作品が応募されても撰者には理解できないから取り上げる事はないだろう。だが、それ作品は後に陽の芽を見、歴史の一頁を飾ることだろう。それは歴史、これから進化すべき必然を書いている事を見逃がしてはならない。 
 これからの人間はロボット、AIと共存するのではなく一体化すべきなのだと、後に後悔しないために人間は進化しなくてはならないのだ。
 まだ、今なら、今からでも遅くない、立ち止まっていたら人間は、生きの喜びである職業を総て失う事になろう。
 まず、タクシーの乗務員、教師、公務員、小説家、芸術家、医師、等あらゆる人間がしていた事は奪われ、社会に参画できなくなって人に尽くすことがなくなり、子孫の繁栄もなくなり、やがて人間は絶滅する事だろう。
書きものは総てロボットの手に移る事だろう。遠い未来ではない、もう目の前にその現実は迫っている事を人間は感じ、人間として何が必要なのかを真剣に考える最後のチャンスとしてとらえなくてはならないことだろう。人間の頭脳による知恵と情報の知恵を自分の物としている人間だけが生き残る、そんな時代がそこに来ている事を知り、その不毛を書くことのみが文学を残すすべであることを気づく時なのだ。
私は安倍公房の全作を読んだ時に恐怖におののいた経験がある。あの時安倍公房は人間に警鐘ならなしていたと思う。日本で最初にノーベル文学賞の候補に挙がったことに頷いたものだ。



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